創業者 岩谷直治の足跡

岩谷産業 創業者 岩谷直治

岩谷産業  創業者岩谷直治

プロパンガスを全国に広め、主婦をかまどのススから解放する台所革命を起こした功績から“プロパンの父”と呼ばれた岩谷直治は、水素に誰よりも早く着目し、必ず水素の時代が来ると信じ、水素エネルギー社会の実現に向けて邁進しました。
世の中を変える二つのエネルギーに挑戦した不屈の開拓者精神がどのようにして育まれたのか、その生涯の一部をご紹介します。

誰にでも謙虚にしていれば
人は教えてくれるものだ

岩谷直治は、1903年、島根県安濃郡長久村(現 大田市)に父・邦吉郎と母・ミサの五男として誕生しました。
父・邦吉郎は、豪農の総支配人を務め、信州へ出かけ養蚕・製糸を学び、横浜へ生糸の販売に出向くなど、知見が豊かで厳格な教育熱心な親でした。直治は、父から「謙虚であれ、その姿勢を持ち続けることが大切だ」、「どんな人でもおまえより何かいいものを持っている。死ぬまで他人に教えてもらうのだ」と、事あるごとに言われて育ちました。

母・ミサは、ふた回りも年が離れ、三男二女がいる邦吉郎に嫁ぎ、二男三女に恵まれ、夫と10人の子供の面倒を見ながら家事一切を一人でこなす努力の人でした。
ある日、直治は従弟から「選挙権がない貧乏人」とバカにされ大げんかをしましたが、母から「人をさげすむことは恥ずかしいこと。相手の立場に立って考えることが正しいことですよ」と諭されました。
後年、直治は「子どものころは分からなかったが、成長とともに両親の教えが分かり、自分の生きざまから会社の経営にまで影響を及ぼした」と語っています。

岩谷家の家族、母・ミサに抱かれた直治
岩谷家の家族、母・ミサに抱かれた直治
父・邦吉郎と母・ミサ
父・邦吉郎と母・ミサ
幼年期

農学校で学んだ「世の中の必要」

今なお受け継がれている

直治は成績優秀でしたが、父が病に伏せ家計が苦しくなったために、自宅から徒歩で通える安濃郡立農業学校(現 島根県立大田高等学校)へ入学しました。
当時では珍しいデンマーク農業を教える新任の大橋清蔵先生からダーウィンの進化論を学んだ直治は、「適者生存」という明快な論理に、世の中はそういう具合に動いていくものかと感銘を受けました。
辞書も買えず修学旅行も不参加だった直治の事情を把握していた大橋先生から「農学校というのは、自然と農業でもって人間を作る学校である。必ずしも農業をやらなくてもよい。世の中に出て、その人の得意の方向に向かって努力すれば必ず成功する。胸を張って一生懸命おやりなさい」と励まされました。
大橋先生の教えを受けた直治は、進化論の適者を「世の中に必要なもの」に置き換えて、「世の中に必要な企業は生き残れる」と常に言い続け、そこから編み出した企業理念「世の中に必要な人間となれ 世の中に必要なものこそ栄える」は現在でも会社活動の礎として受け継がれています。

故郷の友人と直治(前列右)
故郷の友人と直治(前列右)
大橋先生
大橋先生
農学校

同じ失敗をしない
人のやらないことをやる

農学校を卒業した15歳の直治は商人を目指して神戸の楫野海陸運送店へ奉公に出ましたが、奉公の初日、夜行列車の長旅の疲れもあって寝過ごしてしまいました。周りの無言のムチが身にこたえた直治は翌日から5時前に起床し、皆が起き出す前に掃除を終えるように努めました。5時前起床は終生変わらず、これは“同じ失敗を二度と繰り返さない”と肝に銘じたもので、会社を起こしてからは同じ失敗をした社員に厳しく戒める姿もありました。

当初、直治は夜学に通っていましたが、授業中に仕事の疲れから襲ってくる眠気に勝てず通学を諦めました。そんな直治に、主人は「これをやると神戸高商を出たのと同じ実力がつく」と、通常の仕事以外に経済日誌を付けるという日課を与えました。それは、為替・株式・生糸・毛糸・綿糸・金・銀・銅など、日本をはじめ世界の相場を書き留めるものでした。それは数字一文字の誤記でも叱られるので睡魔との戦いでもありました。しかし、毎晩コツコツと一人きりで経済日誌を付けたおかげで商品や為替の動きを体得できたことは、その後の会社経営に大いに役立ちました。
直治は、奉公先での失敗や体験からも“人のやらないことをやる”ことを学びとりました。

同僚と直治(中央)
同僚と直治(中央)
兵庫駅で同僚と直治(左)
兵庫駅で同僚と直治(左)
丁稚奉公

お見合いせずに結婚
二人で創業、正直商法で「信用」を得る

25歳になり縁談が持ち上がると、直治はお見合いを前に先方のご両親に挨拶に伺い、お墓参りを願い出ました。そこで「お墓の手入れが行き届いた家の娘さんなら間違いない」と判断し、お見合いをせずに母親に縁談を進めるように伝えて仕事に戻り、周囲を驚かせました。
そして27歳になった直治は、妻・ソチと二人だけで酸素・カーバイド・溶接材料を扱う岩谷直治商店を創業しました。受注した商品は自らリヤカーで配達し、時には妻・ソチが乳母車に商品と子どもを乗せて配達することもありました。

そんな直治の元に帝国酸素の大阪地区代理店募集の話が届きました。応募のために直治は本社を訪ねましたが、保証金5万円という全財産の10倍もの金額が必要でした。諦めかけたところ、帝国酸素のアンリ・メルキオール総支配人から「岩谷直治さんなら500円でいい」と声がかかりました。これは人づてに直治のことを聞いていたメルキオール氏が、直治の人柄、手腕を見込んでいたからでした。
直治の商売に対する姿勢は、正直商法として語り継がれています。例えば、カーバイドの販売では、電力事情で値上がりすることが予想された時、他の業者は売り惜しみをしていました。しかし、直治は「いま、買っとけばお得ですよ。必ず値上がりしますから」と得意先に言って回りました。実際に値が上がり出し、売り惜しみをしない直治のお客さま思いの姿勢は得意先より信用され、細々と始めた事業でしたが得意先の数が増えていきました。

出雲大社で挙式
出雲大社で挙式
アンリ・メルキオール氏
アンリ・メルキオール氏
創業

上海で恩義を返す
社員のために商売を続ける

1939年、経済統制によって自由な商いの道が閉ざされたことから「金生海運商会」を設立し、中国大陸との海運業を始めました。1941年には、事業の拡大を図るため上海に「金生洋行」を設立しましたが、所有していた2隻の船が陸軍に徴用されたため、海運業を諦めて中国での溶材料販売を始めました。
その後、創業時にお世話になったメルキオール氏に上海で再会した際に、日本軍占領下での仕事に行き詰まっていると聞いた直治は、折半出資による合弁会社を申し出て「東亜酸素工業」を設立し、かつて受けた恩義を返しました。

岩谷直治商店は、1945年2月2日に岩谷産業株式会社に改組し、新たなスタートを切りました。同年3月13日の空襲で、「大阪市港区市岡浜通りの本店が焼失した」という電報を上海で受けた直治は、中国の事業を畳むことにしました。中国人から預かっていた保証金を戻すと、「約束を守ってくれた」と相手は大喜びし、帰国までの面倒を見てくれました。
移転した本店も6月初めの空襲で焼け出されました。2度の本店焼失にもめげずに商売を続けたのは、戦地から帰国してくる社員の行き所を守るためでもありました。1947年、東区(現 中央区)に新築した木造の大阪本社は1970年まで使用し、現在、その跡地は「イワタニ水素ステーション 大阪本町」として蘇っています。

本社社屋(1947年~1970年)
本社社屋(1947年~1970年)
戦火による本社焼失証明書
戦火による本社焼失証明書
会社設立

明日のために
台所革命を起こした
“プロパンの父”

1952年、講演で「イタリアではプロパンガスをボンベに詰めて家庭用の燃料として使用している」ということを知った直治は、かまどの煮炊きに苦労している母を思い浮かべました。「主婦をススや煙から解放したい。これこそ自分がやりたかった事業である」という信念で、「金がないのなら酸素ボンベも何もかも売り払って資金を作れ」と檄を飛ばし、50歳にして不退転の決意でプロパンガス事業を始めました。
当初は、プロパンガスの便利さを浸透させるためにキャラバン隊を組んで全国を行脚するなど苦労の連続でした。直治は「やり出したからにはガスを切らさない、安全にお届けする」という基本方針のもと、ローリー、タンク貨車、コースタルタンカーを導入し、全国規模の輸送網を整備していきました。
そして夢であった輸入権の許可を通産省(現 経済産業省)に申し出たところ、輸入基地と専用タンカーを持つことや安定したソースの確保などの条件を示されました。「無謀だ」「資金の目途が立たない」と反対の声が多くありましたが、「この計画を実現させなければイワタニの明日はない」と、これらの条件を10年以上の歳月をかけてクリアし、他社に先駆けて輸入から消費先までの一貫供給体制を構築しました。
直治はプロパンガスの普及に邁進し、台所の燃料革命を起こした功績から “プロパンの父”と呼ばれるようになりました。イワタニは、MaruiGasのブランドで全国320万のご家庭にお届けしています。

プロパンガス仕様にリニューアルしたかまど
プロパンガス仕様にリニューアルしたかまど
プロパンガス専用タンク貨車と球形タンク
プロパンガス専用タンク貨車と
球形タンク
プロパンとの出会い

もったいない
「夢の水素」が世の中を変える

1941年頃、原子水素溶接機械が輸入され水素が使われたことで水素需要が出始めました。当時、硬化油脂製造工場では自家使用する以外の水素を捨てていましたが、直治は「もったいない」と、この余剰水素を引き取り販売したのが水素事業の始まりでした。
1958年、「今から事業化の道をつけておく。イワタニがやらなければ誰がやるのだ」と、役員の渋面を一蹴して、大阪水素工業(株)を設立しました。水素の需要が増加の一途をたどるのを見た直治は、「やがて液化水素の時代が来る」と考え、液化水素製造プラントを建設し、宇宙開発事業団(現 JAXA)に液化水素の納入を開始しました。
直治は、水素の夢を語るとき「究極のエネルギーは水素である」「いずれ航空機も水素で飛ぶ時代がくる」と話していました。1986年8月13日、液化水素を燃料にしたH-Iロケットの打ち上げ成功を種子島で見た直治は、「プロパンが台所を変えたように、21世紀には水素が世の中を変えることを確信した。これは理屈ではなく、長年ガスと付き合ってきた私の勘である」と語りました。
その直治の夢である水素エネルギー社会の実現は当社のDNAとして受け継がれています。

初期の大阪水素工業
初期の大阪水素工業
大量輸送に向け開発した水素トレーラー
大量輸送に向け開発した水素トレーラー
水素の夢

故郷への思い、世の中へのお返し

岩谷直治は、生まれ育った島根県大田市を思う気持ちは人一倍でした。例えば、1956年から母校の長久小学校に本を毎年寄付し、これは「岩谷文庫」と名付けられました。1966年には島根県に財団法人岩谷育英会を設立し、1973年には母校の島根県立大田高等学校(卒業時は大田農学校)に図書館を寄付するなど、直治の故郷を強く思う気持ちを表しています。
1973年、直治は古希を迎えたのを機に「社会に役立つことをやろう」と思い立ちました。持っていた自社株と現金合わせて約30億円を投じて、財団法人岩谷直治記念財団を設立。科学技術研究と国際留学生への助成を通じて、人と社会に寄与しています。
直治は、父から「金は諸刃の剣だ。使い方を間違うと自分が傷つく」と教えられました。この教えは、会社を興してから口癖となった「儲け過ぎてはいけない」に反映され、世の中へお返しするという気持ちを終生強く持ち続けました。

第一回岩谷直治記念賞贈呈式
第一回岩谷直治記念賞贈呈式
世の中へのお返し

己に勝った「否凡の人」
先生は出会ったすべての人

2005年、取締役名誉会長 岩谷直治は満102歳で亡くなりました。生涯現役を全うした秘訣は「克己心(おのれにかつ)」に伺えます。
直治は健康に人一倍気を遣い、若い頃から酒・たばこの誘惑に負けませんでした。そして、22時就寝、毎朝5時前起床、起床後30分は自己流の体操、般若心経を唱えるなどを日課にしていました。これを終生続けることは並大抵のことでなく、まさしく己に勝ったといえます。
その上に好奇心が旺盛で、父から教えられた「死ぬまで他人に教えを乞え」を一つの生き方として貫き、素直に学び続けたところに岩谷直治らしさが表れています。
対談された評論家の草柳大蔵氏は、「岩谷直治さんは、学校歴は浅いが、学歴は長い。学歴は学びの歴史であって、『何を学んだか』が重要です。人間は、親教・師教・世教を受けて育ち、仕事をし、家庭を作っている。その過程で人格的に非凡と平凡に大別されるのだが、岩谷直治さんは面白いことに非凡でも平凡でもないのである。凡の尺度を超えた『否凡』の人である」と評されました。
直治自らも、87歳で受けた「私の履歴書」(日本経済新聞社)の取材にて、「実社会が学校であり、仕事を通じて出会った人すべてが先生であり、若い頃から見てきた産業、企業の盛衰が教科書だった。早く実社会に放り出された分だけ、人より長く学ぶことが出来たのかもしれない」と、人生を振り返っていました。

※草柳大蔵(くさやなぎ だいぞう)
1924年横浜市生まれ~2002年逝去。雑誌編集者・新聞記者を経て評論・人物論・芸術論など多彩な執筆活動を展開した。著書には「山河に芸術ありて」「命燃やしております」他多数。
直治式体操
直治式体操
草柳大蔵氏「否凡の人」直筆原稿
草柳大蔵氏「否凡の人」直筆原稿
生涯現役

経歴

  • 1903(明治36年)3月7日

    島根県安濃郡長久村(現 大田市)に生まれる

  • 1918(大正 7年)3月

    安濃郡立農業学校卒業(現 島根県立大田高等学校)

    楫野海陸運送店(神戸市)勤務

  • 1930(昭和 5年)5月

    岩谷直治商店を創業

  • 1945(昭和20年)2月

    岩谷産業株式会社設立 代表取締役社長に就任

  • 1973(昭和48年)12月

    財団法人 岩谷直治記念財団を設立 理事に就任

  • 1985(昭和60年)12月

    岩谷産業株式会社 代表取締役会長に就任

  • 1998(平成10年)6月

    岩谷産業株式会社 取締役名誉会長に就任

  • 2005(平成17年)7月

    死去、享年102歳

栄誉

  • 1961(昭和36年)6月

    通商産業大臣より保安功労賞を受賞

  • 1963(昭和38年)5月

    藍綬褒章 受章

  • 1965(昭和40年)10月

    紺綬褒章 受章

  • 1966(昭和41年)5月

    紺綬褒章飾版 受章

  • 1973(昭和48年)11月

    勲三等旭日中綬章 受章

  • 1985(昭和60年)4月

    勲二等瑞宝章 受章

  • 2005(平成17年)7月

    従四位叙位

勲二等瑞宝章受章
勲二等瑞宝章受章

著書・評伝

  • 1980(昭和55年)5月

    岩谷直治あるがまま対談「ご縁ですなァ」

  • 1989(平成元年)7月

    日本経済新聞に「私の履歴書」を連載

  • 1990(平成 2年)4月

    私の履歴書「負けずぎらいの人生」
    (日本経済新聞社)

  • 1996(平成 8年)5月

    「定本・私のことば」

  • 2000(平成12年)6月

    「土の思想 火の経営 岩谷直治の生きかた」
    硲 宗夫著(東洋経済新報社)

  • 2003(平成15年)12月

    草柳大蔵 取材ノート
    「否凡の人―岩谷直治」

  • 2008(平成20年)3月

    「岩谷直治・身交の人々対談集」
    (上・中・下)

発刊された著書・評伝
発刊された著書・評伝